2015年08月12日

お盆のいわれ。



お盆前に一言。

地獄の釜の蓋開けの意味を知る。
もうお盆の時期が来ました。だが、お盆の本来の意味がいまや失われていると言えます。

そもそもお釈迦様の教えにお盆の行事はありません。これはお釈迦様の教えの中では「施餓鬼供養」なのです。お釈迦様の十大弟子の筆頭であった目連尊者の母親が地獄界に落ちていた。そこから始まった施餓鬼供養を元にして中国で創られた盂蘭盆経(うらぼんきょう)から来た風習なのです。お釈迦様の教えではないのです。
そうしたことは僧侶の方ならばご存じなのですが、お盆はお寺にとっても稼ぎ時ということもあり、単にご先祖様が家に帰って来られる式のことしか言われません。

ただ、このお盆の時のことを別名「地獄の釜の蓋開け」とも言います。お盆の時だけは地獄に落ちていた亡者も許されて娑婆の縁者の元に帰れるです。

それは単なる迷信だと思うと違っています。それがよく解るのは「霊媒体質」者に起きる現象なのです。
お墓と呼ばれる場所は死者を葬る場所ですが、別にお墓に死者の霊は存在しているとは限らないのです。完全に霊界上がりで天国界と称される界に行った霊は、この世の家族のことなど忘れています。もう霊界の住人で有り、向こうの世界で暮らしているからです。
向こうから言わせると、もう自分のことは忘れてくださいなのです。なまじこの世のことは引きずりたくないのです。この世は思い出す必要が無い世界です。この世のことに引きずられると「執着」になるからです。この世に執着している霊は成仏しないということは、数多く語られて来たことです。
死後もお墓にとどまって出て来るような霊とは、言うなれば不浄仏霊なのです。ただ、家系の子孫の守護霊役を命じられて墓に存在する霊はあります。そこが一概に言えないこととなるのです。
何で墓石かとなるでしょうが、お塚信仰を理解すれば御神霊達もお塚と呼ばれる石を根拠にされていることで解るでしょう。

霊媒体質の方が普段お墓に参っても何とも無いのに、お盆の時期に墓参りに行くと霊に憑依されてて苦しむがあります。それはお盆の時期には地獄の釜の蓋開けと言われるように、地獄の住人も休暇的なことを得られるからです。霊媒体質者はそうした霊に憑依されることからお盆の時の墓参りはきついのです。

もう自分の家系に供養をしなければいけない霊が存在しないとなれば、別に墓参りなどは必要はないのです。が、私の様に寺の境内地に墓があれば、周囲のお墓のこともありますので、そこだけ墓に花がないとか草を生やしているも変な話なので、墓の掃除もし花も供え、塔婆も建てます。郷には入れば郷に従えで、従う必要がある風習もあるのです。また、自分も墓があればそこに葬られる場所となります。

で、何故に「盆」と言うのでしょうか?。それは「皿に分ける」の意味からです。目連尊者の母親は我が子ばかりが可愛い。目連尊者にとっては良い母親だったでしょう。だが、目連尊者の側とか近くに居た他人の子供達に対しては、何の恵みも与えなかったのです。一つの皿にもって分けるの発想がなかったのです。

私が霊界修業に入った時の伏見稲荷大社の講では、お祭りの時には伏見稲荷大社の参集殿に講員さんと一緒に泊まっていましたが、私は師匠の命令で何も食べる物を持って行きませんでした。講の皆さんが余分に食べ物を持って来られて、それを師匠を含めて全員で分けていただく。各地から来られるので、そこの名物を持って来られる。出される方は仏教的に言えば皆に功徳を施すなのです。私はいつも皆さんから功徳を施される方だったのです。

私が子供の頃、友達を連れて大叔父の元に遊びに行くと、大叔父は私に小遣いをくれるのですが、それと同額の小遣いを私の友にも上げていました。そこには自分の血縁とか赤の他人の子供の分け隔ての観念がありませんでした。その大叔父は普段の生活は質素でしたが、地元の氏神様に対しては石の大鳥居を寄付するほど信仰深かったのです。
私が霊界修業に入って、大叔父がどこに行ったかを調べますと、大叔父が住んだ土地の氏神様は、自分よりも遙かに高い世界に行かれたので詳細が解らないと言われます。そこで、大叔父の霊に来ていただいたところ、三途川を朱色の龍船に乗せられて神界に渡ったと言います。朱色の龍船など初めて聞く話でした。だが、自分も向こうの世界で忙しいからと帰って行きました。
後に豊受様が朱色の龍船に乗っておられる光景を見させていただきましたが、神界差し回しの船だったようです。

大切なことは自分の子供の可愛がりではありません。自分の子供と同様に他人の子供さんにも接する。全ての人に対して等しく接する。霊界は縦社会であって段階が生じます。人は死ねば皆同じ階層には行きません。この世で親子だったとか夫婦だったは基本的には関係ないのです。それは各自のこの世での生き方が問われるからです。
いくら霊界は多様で、いろんな世界が無限にあると言っても縦世界であることを見逃してはいけません。
その点、この世は横社会で有り。皆、平等性を持つのです。で、この世では自分は神と同じだ式で行きますと、霊界に入った時に霊界は縦社会であった。自分は間違っていたと気づいても「後祭り」となるのです。

お盆とは「後祭り」です。一つの皿に盛った物を皆で食べましょう。それが解らなかった霊に教えるが「お盆」です。漢字は中国から来たは表面的な話で有り、日本語で仕組みをして来た神の存在を知るならば、お盆の意味も解るでしょう。

私が住む田舎では墓に供え物をして置いておくと、狸とか狐とかカラスが食い散らかします。それも野生動物に餌をあげる供養と言えば供養ですが、散らかされる後始末を考えない行為になります。そしてお盆のお供え物として売られている品々、自分で食べたいと思うかです。自分で食べたいと思わない物を差し上げるは、そもそも失礼な行為なのです。あまり形式形式にとらわれてはいけません。
で、私個人はお盆の時は自分が食べたい物を仏壇に、ただし、私は家の神棚に神霊が居られようが居られまいがまず神棚に先に上げて、それを下げて仏壇に上げます。墓では墓の周囲に居るであろう霊達にお経や線香の香りを差し上げるをしています。それも一種の供養だからです。

だが、供養されなければならない霊になることは「後祭り」であり、この世に生きている時に神界に入れるだけのことを積んでおくが肝要なのです。
この世に生きている時、「我よし。自己本位。」ではなくて、他の人達に対して少しでも助ける。困っている人に恵みを与える。他を助けるなのです。それはお盆と呼ばれる時期ではなくて、常に心がけることなのです。だが、お盆という時期なので、「皿に分ける」を申しておきましょう。
人に内在する良心神(神言会)










Posted by 有田だいち  at 16:55 │Comments(0)

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